正直一読したときはわからないことだらけであり、なにこれ?という感想だった。しかし、解説サイトを読みだいぶ理解することはできた。
「和音は、シナリオで描かれたような交通事故の体験者を捜し、ようやく見つけました。それが烏有だったのです。つまり、シナリオが烏有の体験を予言したのではなくて、シナリオにたまたま合致した体験者だったから、烏有はこの事件に巻き込まれたというわけです。そして和音は、シナリオにそって、桐璃を烏有に近づけました。これまた、映画が二人の出会いを予言したわけではなく、映画に合わせて出会いが演出されたというわけです。つまり、烏有の存在価値というのは、彼が偶然、シナリオに合った過去を持っていたということに過ぎなかったのです。」という説明にはだいぶ納得したが、それにしても作中人物の心理描写などこうも似通るものだろうか?という疑問も残る。
「左目を失った“うゆーさん”の桐璃が“退場”させられるとともに、それまで隠れていた“うゆうさん”の桐璃が登場するという、陳腐で残酷な双子トリックによる“復活”の演出こそが編集長(和音)と武藤の計画の要点であり、また烏有には“奇蹟”を目にしてそれを裏付ける――間違いなく同じ“桐璃”である(別人ではない)ことを保証する――視点の役割が与えられていた、ということになるのではないかと思います。」という説明にも納得させられた。その結果“うゆーさん”の桐璃ではなく“うゆうさん”の桐璃が選ばれたというのもなんともやるせない話だ。
「視点人物の主人公が犯人である」というのは割とよくあるパターンだし驚きは少ないが、上記の二点には驚かされる点も多かった。
それでも天変地異とも思われる自然現象はなんだったのか、という疑問は残るし、「メルカトル鮎の一言がすべてを解決する。」というのは誇大広告ではないだろうか?
★★★(3.5)